長崎の韓国人原爆犠牲者慰霊碑

今日は長崎に原爆が投下されてから80年である。広島の原爆でも朝鮮人(韓国人)が被ばくしたが、長崎でも同様に朝鮮人(韓国人)が被ばくした。
韓国のハンギョレ新聞に記事によると、
「長崎への原爆投下から80年を翌日に控えた8日午後、日本の長崎の平和公園で韓国人犠牲者慰霊祭が開かれた。この日、仏教界と日本に住んでいる韓国人と日本人たちは長崎平和公園に集まり、80年前に長崎に投下された原爆で死亡した朝鮮人の魂を慰めた。第二次世界大戦のさなかだった1945年8月9日、長崎に原爆が落ちた。降伏を拒んでいた日本に加えられた米国の圧力だった。原爆による被害は強制動員された朝鮮人たちにも及んだ。長崎地域の炭鉱と三菱工場には強制徴用で連れてこられた朝鮮人たちがいた。原爆によって長崎で約6万〜8万人が死亡したと推定されるが、朝鮮人2万人も被害に遭い、そのうち約1万人が死亡したという。 日本政府は、朝鮮人がなぜ犠牲者の多くの割合を占めているのかについて説明することには消極的だ。今月6日の「JTBC」の報道によると、広島の平和記念公園と長崎の平和公園の韓国人原爆犠牲者慰霊碑はトイレの横に建てられている。在日韓国人が4年前にここに建てた慰霊碑にも、朝鮮人強制動員と関連した内容は抜けている。」
私は数年前に長崎を訪れた時、平和公園のすみに建てられた韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前にたった。
この慰霊碑は下記のように建てられたという。
「昭和42年7月10日長崎市大浦元町1、誠孝院地下納骨堂に安置されていた朝鮮人被爆者の遺骨 153(納骨箱38個)を岡正治氏が発見した。この遺骨は、朝鮮人連盟が保管していたが、昭和24年 9月同連盟が団体等規正令により解散指定団体となり、朝鮮人連盟の財産が没収された際、同時に没収された。その後大音寺に預けられ、さらには昭和27年3月6日誠孝院へ移管保管されていたが、昭和43年8月さらに深堀円城寺に預けられた。
昭和48年11月13日遺骨は木浦に送還された。以上の経過の中で岡正治氏は、昭和43年6月朝鮮人原爆死殉難碑納骨堂建設委員会を結成し、募金を開始したが、その後、昭和54年3月「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」建設委員会が結成され納骨堂建設委員会は解散した。同年7月12日追悼碑建設を決議、急遽募金運動を再開し、8月9日午前7時30分除幕式挙行の運びとなった。
毎年8月9日午前7時30分、追悼早朝集会(無宗教)を挙行している。(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)
- 設置年月日 昭和54年8月9日
- 設置者 原爆爆死朝鮮人追悼碑建設委員会
発起人 岡正治 - 設置目的 強制連行、徴用朝鮮人被爆者慰霊
- 寸法 碑:高さ75×幅65×奥行30
台座:高さ30×幅73×奥行50
新台座:高さ18×幅155×奥行135 - 材質 黒御影材